共時性の罠

 ソシュールあたりが言ひ始めた共時何某だが、あくまでも研究の切り口や、説明の便宜を図るためにあるわけで、研究者や教育者が通時言語学を無視していいわけではない。(最近、文語文法なんて知らなくてもいいんだといふ日本語教育者が多い。)

 なぜ、「起きる」は不変部が「起き」なのに、「き」の部分まで送り仮名に含めるのか?共時的な切り口だとどう転んでも納得できるやうな説明は見つからない。通時的な切り口では、単純に「起きる」は、以前「起き、起き、起く、起くる、起くれ、起きよ」と活用したので、それに従って、漢字の部分と送り仮名の部分を切り分けたと説明すればよいだけだ。そして、表記には一貫性が大切だから、不変部が見かけ上、変はっても送り仮名の開始位置は変はらないと加へる。例へば江戸幕府を研究するのに家康の研究が有用なのは当然なわけで、なぜ言語学だけ過去を無視していいことになったのだらう。通時言語学に精通した研究者が共時言語学の研究手法をとって初めて優れた研究成果が出せるわけで、最初から共時言語学の知識しかないのではまともな研究成果が出るわけがない。
 これは仮名遣ひにも言へることであって、通時的な表記である正仮名遣ひに精通してゐれば、たとへ現代仮名遣ひであっても、たやすく淀みなく運用できるが、正仮名遣ひの知識がない人が、現代仮名遣ひを運用しようとしても、それは我流にしかならない。拠り所が、主観的な発音だとか主観的な語源意識しかないわけで、主観なんて百人ゐれば百の主観があり、一致した見解なんて出やうもない。さういふ物を正書法などと偽って、正仮名遣ひを否定してゐるのだから、矛盾点は幾らでも指摘することができる。