こもれびにS氏降臨

 最近、コメントも書かず、黙々と異体字対応表の投稿を続けてゐる。実は、一年前に『パーソナル現代漢和辭典 - ziomの日記』で書いた内容を実行してゐる最中だ。かういふ資料は、途中段階で公開しない方がいいのだが、オフラインで作業を続けてゐると、気が滅入ってきて、最後までやる気が続かないと判断したので、作成したものから50件づつ公開してゐる。お陰様で、今でも100件分ストックがあり、随時、継続的に公開できさうだ。

 ところで、けふは手元の対応表ストックを公開するよりも、先日、少し話題にした「こもれび」の件に触れよう。

 芝野さんが降臨してゐたやうだ。あの場で文字コードの解釈論を芝野さんとするのは建設的ではないだらう。これは、芝野さんが文字コード界の権威だといふ意味ではなく、芝野さんの一存では変へられないぐらゐ文字コードの根幹に関はる問題だからだ。ぢゃあ、文字コードの解釈に従ふことは運用面で本当に合理的かと問はれれば、その議論はあってもいいと思ふ。その土俵であれば、字義より字形を優先した運用に対して賛同者はそれなりにゐるし、文字コードの解釈から逸脱しても、それを上回るメリットを情報交換者で共有できれば、そのやうな運用形態を文字コード規格書は否定してゐない。実際、青空文庫のルビ形式《》は、本来の文字コードとは違ふ解釈を情報交換者間で共有し、運用してゐる例である。
 本来、運用面の議論である「ケヶ」問題を、文字コード論にしてしまふと、文字コード関係者が異論を挟むのは当然の成り行きだ。運用の問題であれば部外者だった人でも、文字コード解釈問題にしてしまふと途端に関係者になる人が増える。ところで、文字コード関係者だって、文字コード規格書の解釈が運用面で本当に合理的かと問はれれば、疑問を持つことは多い。むしろ文字コード関係者の方が「ケヶ」問題以上に運用面で深刻な問題に直面してゐる。新常用漢字表の例字字形問題もその一つであらう。
 芝野さんのプレゼン資料で、私の解釈と違ふのは、電子テキストの校正回数である。芝野さんが、電子テキストの校正回数が減るので、初期作成が大切だと書いてゐたが、私は違ふ意見を持つ。電子テキストは複製が容易なので、複数の校正者を確保できるし、プログラムによる自動校正も期待でき、構文チェックや誤植も検出できる。その箇所だけ底本と入力文を見比べることで、大幅に校正効率が高まる。
 だから、「ケヶ」問題も、大まかな作業指針を決めてしまへば、細かい点は入力者の運用に任せ、入力者の記名さへしっかり管理しておけば、入力者のクセとポリシーを加味して、後で各自が使ひやすいやうに加工すれば済むだけだ。一部で「ケヶ」を字形に沿って入力してゐても、それが理由で入稿が拒否されると思へないし、一方、今までの字義に沿った入力指針を廃止する必要性も感じない。ただ、私は運用面では部外者なので、余計なお世話なのは重々承知してゐる。