東大の復権か?

党首の学歴

2009年8月衆院選 民主党 国民新党 社民党 自民党 公明党 共産党 みんなの党 東大率
東大 慶應 東大 学習院 京大 東大 早稲田 42.9%
東大 東大 東大 東大 東大 東大 早稲田 85.7%

 東大は凋落傾向にあると言はれるが、良く考へると卒業生が直ぐに社会の中枢部で権力を振るふ訳ではない。卒業後、社会の中枢部に入るには早くても30年で、通常は、40年必要だらう。30年とは部長に上り詰める年数、40年とは取締役になる年数だ。今から40年前と30年前とは、1969年から1979年に当たる。1969年とは凄く象徴的な年なのだが、まづ、戦後1945年から1969年までの世相を考へる。
 このころは、戦争で全てを失ひ、皆生きていくだけで精一杯だった。優秀な若者でも、中学を卒業後就職して家計を支へることは珍しくなかった。通常、優秀な若者は、商業高校に進み、高卒で就職するのがごく当たり前の光景だった。しかも大学に進むにしても、近場の旧帝国大学や旧師範学校に進んでゐた。まして地方から見ると、東大とは金持ちでインテリの子弟が行くやうな大学であった。一方、東京では、当時、日比谷、西、戸山、新宿、小石川などの都立高校からそれぞれ100人以上も東大に進学するといふ時代であったが、これは逆を言へば、日比谷高校が優秀だっただけでなく、単純に地方のライバルがゐなかったといふ側面も大きい。今でも、北大、東北大、名大、九大などには、それぞれ、100人から200人合格者を出す地元の名門公立高が数校存在するが、それと同じやうな性格のものだと思へばよい。1969年までは東大は「東京にある帝国大学」だっただけで、「京都にある帝国大学」とそれほど差があった訳でない。
 実は、1969年とは東大紛争が起きた年で、東大の入試が中止になった年でもあった。東大紛争自体は因果関係はないが、1969年とは、都立潰しと言はれる学校群導入後の一期生が卒業し受験を迎へる年でもあった。また、その直前の1968年には、灘高といふ非首都圏の高校が始めて東大合格者数ランキングで首位に立ってゐる。1969年前後を境に、東大は、関東地方の帝国大学から、全国区の大学に脱皮し始めた。次に、都立高校が転落したことで、中学校から英才教育を始める中高一貫生の比率がどんどん高まり、今では、東大合格者の6割を中高一貫生の国立、私立勢が占めるやうになった。(ここ2,3年は公立高校の復権と言はれるが、それでも5%以下の変化で、中高一貫生優位の状況には変はりない。)
 また、高校進学率も1970年代に90%を超えてゐる。これは、優秀なのに経済的事情で高校進学を断念した層が消滅してきたことを意味する。地域差、貧富差に影響されず東大を目指せる環境が整ってきた。一方で、私立中高一貫校の隆盛によりむしろ東大受験機会において貧富の格差が拡大したといふ反論もある。しかし、ものは考へやうであり、依然として東大合格者の4割が地方公立高の出身者であり、経済力がなくても学力で十分合格できる状況にある。もちろん、首都圏でも国立大附属高や公立高から東大への門は開かれてゐる。公立コースの数が少ないのは優秀層が中学受験で私立中に流出して結果的に公立コースに残る優秀層が細るだけで、大学側が公立高出身者の門を狭めてゐる訳ではない。また、私立校や外部塾で受験指導を受けてゐても、東大合格レベルの受験生は、特待生待遇や授業料免除を受けてゐる場合が多い。このレベルになると家庭の経済状況が不十分でも高度な教育機会を獲得できるのである。
 この状況を見れば、むしろ東大卒が本物のエリートを輩出してくるのは今からとも言へる。東大卒は早慶卒に比べて堅物で視野が狭いと言はれるが、それは根拠のないステレオタイプであらう。一学年の人数は東大3000人、慶應6000人、早稲田10000人で、東大卒は人数が少ない分、目立たないが、社会でリーダになるためには、常識で考へれば頭がいい方が有利であり、今後は東大OBが突出してくるであらう。

※「常識で考へれば頭がいい方が有利」:初心者に野球を教へる場合、足が速い子供のグループと、足が速くない子供のグループに分けたら、個々の例外はあるものの、グループ全体では前者の方が上達を見込める、といふのと同じ発想。