計算機仮名遣ひ

 歴史的假名遣に堪能な人でも、字音はよほど鬼門のやうである。大抵「そこまではちょっと」と敬遠される。話が彈むことはまづ無い。氣持はよくわかる。たとへば「きゃう・けう・けふ」三種がどう異るのか、説明は簡單ではない。さうはいふものの、字音假名遣など全く不要であると頭から否定もしない。曖昧なままである。

 高崎氏の語彙収集の功績は多大なるものがあるが、字音についてハードル(参入障壁)を高くするのはいかがなものかと思ふ。略字推進派も字音推進派も、発想が一昔前の紙と鉛筆で留まってゐるのであらう。しかし、今や文字情報は計算機で作成閲覧する時代だ。確かに、歴史上、紙の時代は長かったし、今も紙は最も重要な記録媒体だ。だから、文字言語は紙と手書きを前提に考へる傾向があるが、亀の甲羅や粘土板に刻んでゐた時代もあった。いつの時代でも文字情報は記録に残す必要があり、その時代で最適なものが選ばれただけだ。
 さて、計算機の時代になって大きな変化と言へば、文字を手書きする必要性が低くなったといふことだ。この時点で略字推進派の前提は破綻した。画数10画の漢字も画数20画の漢字も同じ手間で表示できるのだから、重要になるのは表示された字形の視認性と字源の一貫性になる。正仮名遣ひに興味はなくとも、東洋学の学者や印刷業界で正字の見直しが始まったのはこのためである。当用漢字の略字は字源の一貫性を損なった点で問題が多く、一度正字をすべて復活させ、複雑な正字を手書きする場合は、「金」「言」「糸」「門」「長」などの画数が多く、漢字の部品として汎用性の高いものを中心に簡略化を追求すればよい。少数の部品の画数を減らすだけで、今の略字よりも遥かに効率的な省力化が図れるはずだ。
 字音仮名遣ひについても同様で、今では、オンライン辞書もあり、複数の仮名遣ひを提示して見出しにする辞書を実装するのは困難ではない。IMEも同様に簡易字引の役割を果たす。字音の問題について曖昧にしてゐるのはなく、現時点では漢字を入力するための暫定的な仮名遣ひに過ぎないから優先度が低いのだ。「正日」(一般名詞として広辞苑に見出し有り)を「しょうにち」「しゃうにち」「SHOUNICHI」「じょんいる」と入力過程は違っても表示されるのは「正日」である。
 略字推進派は、手書きの必要性が低い正字を批判するし、字音推進派は、仮名書きの必要性が低い字音を過大視する。両者とも計算機の時代では説得力が弱い。それでも、手書きで正字を書いたり、仮名書きで字音を書く場面があるではないかといふ反論がある。そのときは辞書を引いて、正確を期するだけだ。そのやうな可能性の低い場面のために、無用な暗記を強ひて、正字正仮名遣ひの参入障壁を高くして、実践を遅らせるのは得策ではない。

 ※私は正字推進派であるが、ネットにおける検索エンジンのヒット率や、一見読者の便宜を図るため、ここしばらくは略字正仮名遣ひで書いてゐる。

 ※もちろん、正字も字音仮名遣ひも決して軽視してゐるわけではないが、正字の入力はIMEの改良で解決する。極端な解決策はIMEの辞書から強制的に略字を除外することである。否が応でも正字を使ふことになる。また、略字や代用字はデータ作成後も容易に正字に変換できる。字音仮名遣ひのはうは、個人が面倒を見る問題ではなく、ワープロやウェブ・サービスが自動的にルビを振れば解決する。これらは計算機の環境が向上すれば自づと解決する。従って、最後まで人間の手作業に依存するのは正仮名遣ひである。