文字コードは妥協の産物

 この一句にブックマークでコメントがあったやうだが、新規格でない限り、文字コードは妥協の産物であることには変はりない。もちろん、規格制定委員のかたはそれぞれの専門家であるのは確かだが、文字コードの場合、「情報交換」といふ目的が一番重要であって、その目的を果たすためには、学問的真理は二の次になる。「ヴ」を辞書の順番に倣って「ウ」の直後に入れたくても、既に決められた文字番号を移動することはできない。「妛」が誤字の可能性が高くても、その字体を(包摂の範囲を越えて)変へることはできない。規格制定委員個々の資質と規格そのものは切り分けて考へないとならない。
 ところで「ケヶ」問題でトラックバックがあったやうだが、「部外者の感想」とあるけど、「部外者」は正しいけど「感想」と思ふならそれは違ふ。「部外者」とふ意味では、私が青空文庫に方針に文句をつけることは確かに畑違ひで慎むべきだと思ふけど、文字コードに対しての意見は「感想」ではない。文字コードは字形を定義するものではない。文字コードは字義を定義するものだ。それを否定したら文字コードの根幹が破綻する。ユニコードの雪ダルマはバケツを被ってゐようがゐまいが、雪ダルマといふ共通認識が伝はればどちらでも正しい。(その共通認識の曖昧さが問題になるのは確か。しかし文字コードはそれに答へない。例外的に包摂規準といふものを明文化して混乱を抑へることもあるが、またそれが新たな混乱の種になる。)それはISOでもJISでも文字コード規格と名乗るものは全て同じだ。特定の集団でそれを逸脱した運用をするのは情報交換当事者の自由だが、「JIS文字コードは字形を定義したものだから字形に従へ」と主張する人がゐれば、それには反論するしかあるまい。青空文庫掲示板でなくともどこでも同じだ。