表音霸權主義

 ふと思ったが、昭和時代の初期でも、「買うた(かうた)」と「請うた(こうた)」、「家事(かじ)」と「火事(くゎじ)」は發音上區別されてゐた。少なくとも九州や四國の方言ではその區別があった。ところが、東京の住民はその區別ができなかったらしい。自分達ができないことを地方の人間ができるとは考へないのが、今も昔も中央の人間が持つ驕りだ。長い間、表記上區別され、一部の人には發音上も區別されてゐたものを、たまたま、中央の人間に區別する能力が備はってゐなかったといふ理由でなくしてしまったのが現代假名遣ひだ。日本語における時間と空間の深みを取っ拂ひ、日本語を薄っぺらにしてしまった。かういふのを表音霸權主義といふのだらう。
 現代假名遣ひは表音的だといふが、その表音といふのは、1940年代の東京人にとっての表音であり、その時點から空間的にも時間的にも遠ざかった人にとっては、難解な假名遣ひに過ぎない。時間がたつに連れて、現代假名遣ひは急速に混亂が擴大し、結局は、表音とは全く關係のない權威主義によって押し付けられるやうになる。正假名遣ひであれば、表記に混亂があっても原典と語源をたどるといふ學問的プロセスで假名遣ひが確定するが、現代假名遣ひでは、表記に混亂が生じたとき、常に1940年代の東京人から發音を聞かなければならない。タイムマシンを發明するか、1940年代の東京人を冷凍保存して、必要なときに解凍して發音を尋ね、また冷凍するしか方法がない。原典や語源から切り離された表記といふのは、これほど不安定なのである。むしろ、グロテスクと表現するはうが適切かもしれない。實際、「氷(コーリ/こほり)」と「公理(コーリ/こうり)」の區別は、現代假名遣ひにおいても、正假名遣ひを參照することで確定するしかない。