生きた言葉を對象にするのが正假名遣ひでは?

 (a)のページ(正假名)から紹介された(b)のページ(現代假名)と、そのページが褒めた(c)のページ(正假名)

 擬古文や文語文ってそんなに大層な代物かな?高校の英作文より全然簡單だと思ふ。助詞、助動詞、接續詞、陳述の副詞、代名詞、用言の活用を、文語文法に則って變換すれば、それらしき文章ができる。もちろん、(c)のページのやうに趣味で書く分には否定しない。それに(a)のページのやうに違和感を感じるのももっともだ。ところが、(b)のページのやうに、絶讃すべき行爲なのか?正假名遣ひは、1000年前の表記を尊重して、1000年後にも通用する表記の繋續性が大切なのであって、1000年前の文法を眞似て書く必要性は全くない。『文語の苑』とかも何かそちら方面で信者を増やしたいやうだが、正假名遣ひ=文語文といふ印象付けは、はっきり言って逆效果だ。
 文語文ができないと正假名遣ひとしては不十分だと思ってゐる人は、自ら正假名遣ひの本質を理解してゐないと白状してゐるやうなものだ。