「やもえない」で、あってるだろ!!!

 少し前の情報だが、面白い。

 「ヤムオエナイ」といふ表現を書きとめるときは「やむをえない」「已むを得ない」(「止むを得ない」も可)であって、「やむおえない」とは書けない。語源上も辻褄が合はないし、既に定着した表記「已むを得ない」が存在してゐるので、それに従ふのが道理だ。しかし、人間には「ヤモエナイ」と発話する自由はある。そして、書き言葉にはその発話を書きとめる義務がある。となると、「ヤモエナイ」に定着した仮名遣ひが存在しなければ、発話通り「やもえない」と書くことになる。この場合でも「エナイ」の語源が「得ない」であることは容易に推測できるので、「え」の部分は「へ」や「ゑ」にはならない。
 もし、仮に「アッテルダロ」と発話されたら、書き言葉はそれを書きとめねばならない。「アッテイルダロー」なら問題はない。既に「あってゐるだらう」といふ仮名遣ひが定着してゐるので、それに従ふ。しかし、「ダロ」には、定着してゐる仮名遣ひがない。その場合は、発話通り「だろ」と書くしかあるまい。過去にも言及したが、これと似た問題が「〜シヨー」に起きた。「〜ショー」であれば、語源上でも正しい「〜せう」(「〜せむ」のウ音便で、推量意思の表現)が採用できる。しかし「〜シヨー」には定着した仮名遣ひがないので、発話通り「〜しよう」と書きとめることになった。それが助動詞「よう」の誕生でもある。
 これが、「歴史的仮名遣ひ」や「旧仮名遣ひ」を主張する人なら、新しい会話表現は仮名遣ひの対象外だと言って逃げるのかもしれないが、正仮名遣ひはこの問題から逃げることは出来ない。理念上は、千年前の伝統を受け継ぐと同時に千年後の会話表現にも対応することが仮名遣ひの本分であるからだ。

 ※「だろ」の先例として「そして」がある。語源は「さうして」でそれが約まったものだが、「さう」といふ長音が短音になる場合、「そ」といふ表記しか選択肢がない。