万人が手書きをする時代

日本語の中の漢字は読むこともできず書くこともできない文字である。
そんな文字が主役を演じているのが、日本語表記の特徴である。
そして、今日ではIT技術だけがかろうじてこのことを可能にしている。

 歴史的に見て、万人が手書きをする時代は、日本においては、20世紀後半のわづかな時期しかなかったはずだ。日本に限らず、どの地域、文化でも、大半の時代において文字言語は、特殊な階層が特殊な筆記具を使って書き残した。あるものは石に、あるものは、亀の甲羅に、鹿の骨に切り刻み、そして、粘土板に刻んで焼いたり、金型に流し込んだり、基本的に、字を書くとは、字を掻くことでもある。
 また、文字言語は、価値のある文献であればあるほど、音読される価値よりも、後世に資料を残す価値のはうが大きくなる。26文字の音声文字の羅列など、数世紀も経てば、暗号の羅列に過ぎない。一方、漢字の文献は千年以上経っても、楷書の文献であれば、十分意味を取ることが可能である。それは、仮名遣ひやスペルでも同じだ。場当たり的な表音的表記よりも、継続性を持った表語的表記のはうが史料価値が高い。
 ところで、アルファベットで書いてあれば読み方が分かるなんて嘘だ。人名や地名のやうな固有名詞は、アルファベットでも実際に確認しなければ読み方は分からない。一般的に通用してゐる単語でも「Thursday」は、イギリスでは「サーズデイ」、アメリカでは「サーゥズデイ」、オーストラリアでは「サーズダイ」だ。「Mr. Sato」だって、ミスター・サトー(佐藤さん)なのか、ミスター・サト(里さん)なのか分からない。
 IT技術で一番問題にすべきなのは、データの永続性だらう。簡単に改竄が可能だし、ハードディスクが吹っ飛べば、その記録は永遠に失はれる。貴重な情報は、紙に印刷して、防火、防水加工をするか、石や金属などに刻印しないと残せない。ブログなんて毎日記録に残しても、プロバイダーが倒産したら差し押さへのハードディスクがフォーマットされてそれで終はりだ。